狂言水如(きょうげんみずのごとし)

酒飲みの中年親父が色々な事を呟きます。

ご無沙汰致しております

平成30年にアカウントを取得しブログを開設したにも関わらず、元来の面倒くさがりの性格が災いして、今日までログインさえしてこなかった。このままではイカンと思い、特に書くこともないけれど、無理矢理筆を執っている次第である。

ある方から「文章は毎日書いていればきっと上手になるよ。だから何でもいいから書きなさい」と言われたことを思い出した。書きながら、流れに乗れば、頭の中だけで完結してしまっていた事も、輪郭を帯びそして景色となるという意味だろうか。

毎日とは行かなくても、毎週書くということを継続できれば、執筆速度も量も質も高くなるはず、と言い聞かせながら。

 

SNSや各種通話アプリの影響だろうか?体感的に自身の文章構成力が著しく衰えた事を感じる。それは書くことに限らず、読む能力にも影響を与えている気がして、数年前から電子書籍ではなくあえて紙の媒体を読むようにしている。

紙の重みがそう感じさせるのか、画面スクロールに意識が向いている為に読解することまでに神経が行き届かなくなってしまっているのかはわからないけれど、確実に脳内に変化が起こっている気がする。

野球評論家の野村克也氏は、監督時代選手を集めての試合前ミーティングの席で、説明する際には自身の考え方を纏めたプリントの類を配布せず、ホワイトボードに書きながら「講義」を行っていたそうだ。

メモを執りながら講義を聴くと集中力もあがり聞き逃すことが減るし、また選手側は書くという動作を通じて監督の話の要点を聞き取ろうとするから、そのほうが良いのだそうだ。

実際一度プリント配布形式にしたこともあったそうだが、その時は監督の考えが殆ど伝わらずコミュニケーション不全を起こした為、すぐに板書形式に戻したという。

最近ではスライドも全てパワーポイントで作成され、講義出席者にはそのパワーポイントの画面を印刷したものが配布される。手元のプリントには映し出される画面が書かれている為か、講義自体を聴く時の集中力が落ちている気がするし、また話し手側になった時も、画面を読めばいいという意識がどこかに存在するからなのかどうかはわからないけれど、言葉の重みが軽くなっている様な感覚を覚えたことを思い出した。

 

一見煩わしい事面倒な事には、凄く大切な意味が込められているのではと思った。

無駄なことは、無意味なことではない。寧ろ無駄なことの中にこそ意味のあることが隠れているのではないだろうか。

 

明日も、無駄なことをどんどんやっていこう。そして新しい無駄なことを探していこう。

 

それでは、酒でも飲みます・・・・