狂言水如(きょうげんみずのごとし)

酒飲みの中年親父が色々な事を呟きます。

紙ってる!?

大きな公園の傍を映した、二枚の青い幻灯です・・・・

 

<初日>

米大リーグのオープン戦が行われた2020年3月某日。仕事中何気なくスマートフォンを触っていた時に突如として現れた大リーグ関連の情報。首都サントドミンゴ でオープン戦を開催する旨の記載、しかも対戦カードはデトロイト・タイガースvsミネソタ・ツインズ。普段は地方に住んでいる私だが、その日は出張仕事で首都サントドミンゴへ滞在。ロサンゼルス・ドジャースから移籍したばかりの前田健太投手が見られるという事で「これは行かなあかんやろ」という事でチケットの手配を試みた。しかし現実はそんなに甘くはない。ただでさえ野球が爆発的人気を誇るドミニカ共和国では通常ルートでチケットを購入する事は困難、しかもオープン戦とはいえ大リーグの試合のチケットとなると、それは想像を絶する難易度である。オンラインで調べても既に完売の表示。万事休すか、と頭を抱えていたところに一人の知人が通りがかった。

どうされたんですか?と私に言い「いや、大リーグオープン戦のチケット取ろうと思うたんですが売り切れで、もう全然ダメですわ。この国では厳しいですね」と返すと、

この国ではダフ屋が球場前でチケット堂々と売っている事も多いですよ。僕はいつも(※)ウインターリーグのチケット買う時はダフ屋から買うので。

と言うではないか。これは起死回生一発逆転狙って、球場前でチケット探すか!と奮起した私。先ほどダフ屋で普段はチケットを買うと言っていた知人から、ダフ屋が多い場所(競争が多いと値段を下げやすい)、チケットが売り切れる時間帯、ダフ屋が売るチケット価格と正規販売の価格差などの情報を仕入れ、翌日球場へ向かった・・・・(続く)

 

 

(※)ウインターリーグ・・・・中南米諸国で主に10〜12月頃開催されている野球のプロリーグ。ドミニカ共和国では6チームによるリーグ戦が繰り広げられている。大リーグや日本のプロ野球で活躍する選手がオフの自主トレ兼ねて同リーグに参加する事も。活躍し目立てばアメリカへの道が拓ける為、各選手達は毎冬ここで凌ぎを削っている。

文字と文字の狭間で

コロナ感染拡大以降急速に普及したオンラインでの人的交流。我が国でも仕事ではテレワーク、またプライベートではオンライン飲み会等、2019年まででと全く違う働き方生き方が求められる時代になった。利便性を感じる日々、長時間通勤のストレスから解放された喜び、他人の干渉が入りにくい等、開始当初は大歓迎のムードだったが、最近では必ずしもそうではない意見が聞かれるようになった。

直接対面しない故に、元来なら感じる事ができた空気感が伝えられず、利便性が逆にコミュニケーション不全を引き起こしているのだ。筆者もオンライン会議、オンライン飲み会を何度か経験したが、相槌の入れるタイミング、提言や反論を始めるタイミング、他の人が発言をしようとしているか否かの空気感など、生では感じられていた物が伝わらない事実に最初は非常に戸惑った事を覚えている。

BBSやSNSの普及が進み、ネット上でやり取りする回数が増えてきた時の事、普段は比較的攻撃的な文章の書き方をする人に対して「難しいだろうな」という印象を抱いていたのに、実際にお会いすると非常に柔和で打ち解け易かった事が幾度とあったが、その時に「実際にきちんとお会いして話す事が誤解を解いたり互いの意思をより正確に伝える為には必要だ」と強く感じたものだ。

例えば「こんにちは」のご挨拶。本ブログやメール等のやり取りだと”文字通り”「こんにちは」「ええこんにちは」の僅か二単語で終わってしまうやり取りが、実際に会って声をかけた時には、発した人或いは返事をした人が、発した言葉のトーンや顔の表情、言葉の間等、読み取れる様々な情報から相手の心情を慮り「今日は元気がないのかな?」「辛い事があったのかな?」「昨日は楽しい事があったに違いない」「珍しく機嫌がいいな(笑)」などと相手の状況に応じてかける言葉を選ぶ事ができる。彼氏彼女と会いづらいコロナ下の中では、オンラインでのデートがメインとならざるを得ず、通常なら発生していなかったであろう(?)喧嘩や想いの行き違いを感じている人も多い事かと思う。

ドミニカ共和国でも対面式の授業を再開させる動きが出始めているが、特に対人コミュニケーションに於いて互いの距離が近いドミニカ人にとっては、オンライン授業やオンライン会議というものは日本人以上にコミュニケーション不全を起こしたりストレスを感じさせているのではなかろうかと推測する。

「この人はコミュニケーションを取るのが苦手だな。では極力対面で話す事は控えよう」という事を知る為にも、やはり実際に人と会うという事は重要なのだという事を改めて感じさせられたし、また無機質な文字だけのやり取りだと誤解を生みやすいので、きちんとした文章を書く事を心がけようと自戒した。

文字と文字の狭間にある感情、0と1の狭間にある意図を汲み取る為にも、以前にも増して真剣に相手と向き合っていこうと思う。

 

外出禁止令や自粛要請のその後

コロナ感染拡大以降、依然として続く自粛要請と酒類の提供禁止。自宅外での同僚や仕事関係者との懇親や友人知人との旧交を温める場所として大きな役割を果たしてきた居酒屋等の飲食店の多くが休業を余儀なくされ今窮地に立たされている。ドミニカ共和国では17:00〜翌朝5:00まで小売店含め酒類の販売提供が一切禁じられるという、日本よりも厳しい措置が敷かれている。仕事帰りの会社員や近所住民達の憩いの場となっていた(※)コルマドの経営者達は客足が激減で厳しい状態にあるという。これらの法令や自粛要請措置の法的効果や社会的波及効果については専門家の知見に任せるとして私からは触れないが、私からは日本とドミニカ共和国の両方で感じたこれらの措置下での人々の行動変容について述べたいと思う。

ドミニカ共和国では元々外食する文化が少なく、週末ともなるとスーパーマーケットでは大きな買い物カートを押して沢山の買い物をする夫婦の姿をよく見かける。特にクリスマスは日本と違い自宅でたくさんの料理を準備し、ビールやワインを傾けながら家族と共にゆっくりと時間を過ごすのが一般的だ。こういった生活様式が背景にある為か、自宅外でのモノや時間の消費への依存が日本と比べて少ない(金額の大小を抜きにして)。

ところが日本では、特に東京や大阪等の大都市圏では一人暮らしの人も多い為、自宅で食事を準備する事も少なく、また「仕事帰りに一杯」「今夜はお客さんと接待が」という機会も多い為、自粛要請により飲食店が休業する事で日常生活及び社会生活に大きな影響が出る。特に飲食店経営者やそこに卸している酒販店、更には酒蔵や醸造所蒸溜所に至っては売り上げそのものが激減し、彼らの生活基盤そのものを脅かす事態にもなっている。

自粛疲れという言葉を頻繁に耳にする日本だが、一方でドミニカ共和国は前出の生活様式が根付いている為なのか、元々陽気な国民性が基盤になっているのか、日本でいうところの自粛疲れというものを聞いたことがない(少なくとも私は)。

モノやコトの消費が、ドミニカ共和国と比して”必要以上の”金銭を介在する消費社会構造となっている日本の大都市圏に於いて、今回の措置は実体に現れているストレス以上にそれぞれが大きな負荷を感じているのではないだろうか。ディズニーランド、USJ、ミッドタウン、表参道ヒルズグランフロント大阪等、娯楽を他者に依存し且それを金銭を通して手に入れている現状では、その流れを止められると、消費社会構造に組み込まれた人々にとっては精神的に死活問題だが、近所の(※)コルマドでビール片手にダンスとお喋り、休日はビーチでビール片手にのんびり過ごす事が大半のドミニカ共和国では、消費行動に制限がかかってもストレスを感じにくいのではないかと思うし、人との触れ合いそのものが大幅に止まったという話もあまり聞かない。

外出禁止令や自粛要請が、結果として極端な消費社会に浸かり過ぎた日本人に一石を投じる事になったのは間違いないだろう。知恵を絞り、足を使い、人と人との絆とは何か?を再考する機会になったと前向きに捉えたいと思う。

 

(※)コルマド・・・・ドミニカ共和国内各地に点在する個人商店。日本でいうコンビニエンスストアに近い。軽食や飲み物、酒類を販売している。店にあるテーブルを使ってその場で定価でビールを楽しむ事ができる為、地元人々の情報交換や憩いの場となっている他、地域の雇用の創出にも一助を果たしている。

Made In 俺 と自立


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2020年2月28日。
前日の2月27日はドミニカ共和国独立記念日ということで、外へ出てイベントやお祭りに参加したり、大統領の演説を聴いたり、または自宅でゆったりと過ごす人もいたり様々である。知人の中には「ビール15本(一本650ml)飲んだよ!だって昨日はお祝いの日だからね!」と、あっさり言い放つ猛者もいる。ここドミニカ共和国にも、飲酒文化はしっかりと根付いており、夕方になればバーは勿論、コルマド(個人商店)の店先に椅子とテーブルを並べて、プレシデンテビールを飲む姿をよく見かけるが、日本の様に泥酔したり酔って大声を出す人は殆どいない。治安の問題だろうか?それとも日本の様なストレスを受ける機会が少ないのか?よくはわからないが、穏やかにお酒を楽しんでいる様に見受けられる。

日本にいた頃は私はそれこそ、連日立ち飲み屋に出かけ、長々と酒を飲んでいたものだ。酒場で出会う一見さん、顔なじみの人、マスターと色々な話をするのが好きで、そこから得られた情報も多かった。また、自分の持っていたネタや情報をアウトプットすることで整理できていた面もあったが、現在は日本と異なる飲み文化の国で、なおかつスペイン語で話さなければならないという高いハードルがある為、以前の様に人々と交流することが難しい。いつになればスペイン語が上手になるのか?道のりは険しいと、帰り道いつも自問自答している。

 

さて・・・・日常生活の中で必ず訪れる場所、スーパーマーケットや大型量販店。ここドミニカ共和国にもIKEA、Plaza Lama、BRAVOなどといった、日本やアメリカでみかけるものと同等クラスのものが多数存在する。日用品の買い物も、日本にいた時と比べ80%以上のクオリティですることが可能で、今現在不便を感じていることはない。が、しかし、店内に陳列されている日用品を見ると、生鮮食料品とビールを除き、大半が米国やメキシコからの輸入品で占められている(若しくは米系会社製品である)。シャンプー、歯磨き粉、洗剤など、驚くほどにmade in Dominican Republicがないのだ。そしてその価格も、日本やアメリカで購入する時とほぼ同額か、若干高い事もある。平均月収250ドル(2019年時点)のこの国で、それなりに買い物をしようとすれば、外国送金に頼らざるを得ないのではないかと推測する。

高額の輸入品を”買わされている””買わざるを得ない”状況に陥っている現在、独立を果たしたとはいえ、依然として欧米の経済植民地としての立ち位置が継続していると言わざるを得ないのではないだろうか。

ドミニカ共和国でビジネスをされているある人にこの疑問を投げかけたところ、以前は大手メーカーがこの国に工場を建てて製造しようという動きがあったが、途中で頓挫してしまったそうだ。「決められたことをきちんとできないから」だそうだ。飲食店でも、マニュアルを作成してもなかなかその通りに作業をやってくれない人が多いとかで、その影響もあるからなのか、多くの日系人が暮らすにも関わらず日本食関連のレストランや店舗は非常に少ない(テリヤキなどの日本食っぽいものはある)。仕事でも学校でもよく「言われたことだけしていてはダメなんや」と当たり前の様に口酸っぱく教育されてきた私だが、言われたことをきっちりやるという事がどれだけ凄いことなのか、地球の反対側へ引っ越してきて痛感するとは思いもしなかった。

勿論仕事をきっちりとこなす優秀なドミニカ人もいるが、そういう人はアメリカやスペインへ渡ってしまい、帰ってこないそうだ。

マンゴー、バナナ、パパイヤなど、フルーツが潤沢に穫れるドミニカ共和国。食いもんはそのへんにあるやつをとって食べればええんやという文化風習が根底にあるからなのか、モノづくりなど、何かをコツコツ積み上げていくという事には不得意な印象を日々受けている。

日本でも昨今は製造工場を海外へ移転し、日本人自ら手足を動かす頭を動かすという機会が減ってきている気がする。その結果、特に通信技術や半導体業界では大きく後塵を拝する結果となってしまった。ものづくりの国日本の復活へ、再考させられる点は多い。

国の礎を築く技術、人間の脳から生まれて世の中を動かすものは技術以外にないという事を改めて考えさせられた。

モノを生み出す、技術を守ることは、安心を手にすることと同じなのかもしれない。

さて、今夜はご飯を炊いて、パパイヤジュースでも作ろう。完全自作。安心安全だろう、多分・・・・

カリブの島へ引っ越しました

f:id:YBlues:20191223040221j:plainついにカリブの島、ドミニカ共和国へやってきた。音楽と野球が好きで、若い頃アメリカという国に興味を持った。留学さえしなかったものの、アメリカへは6回ほど渡航し、そのたびに野球場を訪れたり、ジャズクラブでセッションに参加するなどした。その中で、特に野球と野球を通じたスポーツビジネスに触れるたびに耳にしていたのが「ドミニカ共和国」だった。

英語がほぼ通じないという不安はあったが、元来の寒がりの体質もあり、寒いよりは暑い方がマシやという思いと、パラパラではあるがコメが食えるという理由も相まってこの度引っ越すことを決意した。

数年間という短い期間を想定しているが、得たものを将来的に少しでも日本へ還元できるよう、日々過ごして参りたいと思う。

 

ドミニカ共和国・・・・48,442㎢(九州+高知県の広さ)で、人口は約1,000万人。中米カリブ諸国の中では比較的裕福とはいえ、先進国と比べればまだまだ貧しさの残る国である。リゾートで欧米諸国からの観光客も多く訪れるこの国だが、まだまだ自立できるだけの産業や輸出機構が整っているとはいえず、今後の課題と言える。

気温は年中と通じて高温多湿であるが、12〜2月は最高気温30度、最低気温22度と比較的過ごしやすい。

 

音楽、野球、食、文化・・・・様々な方面からドミニカ共和国について発信していければと思う。そしてこのブログが、少しでもドミニカ共和国へ興味を持つきっかけになれば幸いである。

 

それでは、今日も暑いのでこの辺で失礼するとしよう。ほなまた・・・・

たまには集団生活でも

高校を卒業すると、ほぼ同じ時間に寝食を共にする機会がほとんどなくなる、いやゼロになると言っても言い過ぎではない。

 

私の世代はそうでもなかったが、現在の40代以上の方の中には、それこそ高校野球の寮生活のように、電話はできない・お菓子も食べられない・自由に外出もできないという環境で学生時代を過ごした方も少なくなかった。

特に成人すると、酒を飲むという余計な快楽を覚えてしまう為、門限の類の規則にかなりの窮屈さを感じてしまう人は多いのではないだろうか。

社会人を3年も経験すると、仕事の手順だったり会社や組織の状況が把握でき、「抜き方」というものを覚えてくる。例えば営業マンならサボるという事を覚え、数字あげてるんやから別にええやろ、何があかんねんという考え方が生まれてくるものなのだ。

先日とある友人が、転職に伴う長期合宿研修というものを経験したという話をしてきた。ちょっと音楽やったり、ちょっと喋ったり、その合間に酒を煽るという自堕落な生活になれて10年近くになる私には非常に興味津々で、是非とも事情を伺いたいとその友人を呼び出し、延々と話を聞いたが、現在の私にはとても耐えられそうにないものばかりだった・・・・

 

門限、合宿場内での禁酒、細かく割り振られた研修スケジュールなど、その他細かくあげればきりがないが、よくこんなところで長期間生きていられたなというのが正直な感想だった。その友人は元々画家志望で、創造性を高める為にアルバイト以外の生活では一般社会人と比べると異質な生活を送っていた。金曜日も夜になれば思いたった様にスケッチの道具を抱え家を飛び出したり、アイディアが出てこないと思えば休みなしに酒を飲み続けたり、バスキアダヴィンチに憧れていたというものあって、特に異質な雰囲気を放っていた。

絵の合間にギターを弾くことも多く、よく一緒にセッションをしていたが、その時も若干の奇行の傾向があった、そんな友人が絵の世界を諦め、普通の生活をする為に、10年ほどの遅れを取り戻す為に長期の研修合宿のある会社を選んだのだという。

今までの生活が、ある意味自由奔放だっただけに、この生活は精神的に厳しいのではないかと思い、特にその友人はこれからも趣味で絵を描き続けたいと言っていたので、実際のところどうなんやと問いただしたところ、返ってきた答えは意外にも

「いや、俺はこの生活を経験してよかったと思う。ある種の制約があるからこそ、その限定的な時空の中で最大限の創造性を発揮しようとできるからな。もしかしたら、画家を目指していたフリーターの頃よりも、より自分の中の創造性が磨かれたかもしれない。人間って最低限の枠内で能力を発揮しないと、周囲からは非凡であることを評価されないんだよ。なんだってそうだろ?やっぱりど真ん中ストライクって基準があってこそ、どこまで外せばいいのかが初めて見えてくるんだよな」

というものだった。

研修合宿を終えた彼の作品を拝見したが、同じ被写体のものを描いても、外し方の傾向に変化が現れた気がする。安定した仕事で食うに困らない状況下におかれ、精神的に安定した部分もあるかもしれないが・・・・

おかれた状況でいかにパフォーマンスを発揮するか、それは絵でも音楽でもサラリーマンの仕事でも本質は変わらないのだろうなと、友人の進化した姿を見てそう感じた。

「今の状況が悪いからダメなんだ」と不平不満を言う人は、その状況が満足した瞬間にまた次の不平不満を見つけるのだろう。宇宙に起こる事象の大半は、見方一つなのだろう。

納豆にからしがなければ、わさびでもいいじゃないか。お風呂場にタオルがなければ、手で洗えばいいじゃないか。ダンベルがなければ腕立て伏せをすればいいじゃないか。

ご無沙汰致しております

平成30年にアカウントを取得しブログを開設したにも関わらず、元来の面倒くさがりの性格が災いして、今日までログインさえしてこなかった。このままではイカンと思い、特に書くこともないけれど、無理矢理筆を執っている次第である。

ある方から「文章は毎日書いていればきっと上手になるよ。だから何でもいいから書きなさい」と言われたことを思い出した。書きながら、流れに乗れば、頭の中だけで完結してしまっていた事も、輪郭を帯びそして景色となるという意味だろうか。

毎日とは行かなくても、毎週書くということを継続できれば、執筆速度も量も質も高くなるはず、と言い聞かせながら。

 

SNSや各種通話アプリの影響だろうか?体感的に自身の文章構成力が著しく衰えた事を感じる。それは書くことに限らず、読む能力にも影響を与えている気がして、数年前から電子書籍ではなくあえて紙の媒体を読むようにしている。

紙の重みがそう感じさせるのか、画面スクロールに意識が向いている為に読解することまでに神経が行き届かなくなってしまっているのかはわからないけれど、確実に脳内に変化が起こっている気がする。

野球評論家の野村克也氏は、監督時代選手を集めての試合前ミーティングの席で、説明する際には自身の考え方を纏めたプリントの類を配布せず、ホワイトボードに書きながら「講義」を行っていたそうだ。

メモを執りながら講義を聴くと集中力もあがり聞き逃すことが減るし、また選手側は書くという動作を通じて監督の話の要点を聞き取ろうとするから、そのほうが良いのだそうだ。

実際一度プリント配布形式にしたこともあったそうだが、その時は監督の考えが殆ど伝わらずコミュニケーション不全を起こした為、すぐに板書形式に戻したという。

最近ではスライドも全てパワーポイントで作成され、講義出席者にはそのパワーポイントの画面を印刷したものが配布される。手元のプリントには映し出される画面が書かれている為か、講義自体を聴く時の集中力が落ちている気がするし、また話し手側になった時も、画面を読めばいいという意識がどこかに存在するからなのかどうかはわからないけれど、言葉の重みが軽くなっている様な感覚を覚えたことを思い出した。

 

一見煩わしい事面倒な事には、凄く大切な意味が込められているのではと思った。

無駄なことは、無意味なことではない。寧ろ無駄なことの中にこそ意味のあることが隠れているのではないだろうか。

 

明日も、無駄なことをどんどんやっていこう。そして新しい無駄なことを探していこう。

 

それでは、酒でも飲みます・・・・